反戦歌 (2003/02/23)
毎月決まった日 振り込まれてくるサラリーのように
平和はもう僕らの前に当たり前に存在はしてくれないけど
さよなら2001年の詞です。どうやら21世紀にも、モロに「負の遺産」は引き継がれたようです。
夢?なんでしょうか。
20世紀思い描いた今世紀の夢…自動車は空を飛び、宇宙旅行が手軽なものとなり…或いは宇宙人との遭遇。こんな夢を語らった世界を通り抜けてきたであろう現在の国の権力者が向かわんとするところ―戦争―は現在の彼の夢なのでしょうか。
北朝鮮…ここには夢を見させる「うた」すらない。この国で夢を見ることを許されたものは国のトップと、側近たちだけなのでしょうか?夢を見た人は、国を欺くものとなってしまうのでしょうか。
何がそうさせてしまうのか。何処で見る夢は変わってしまうのか。
ニュースなんかを見ると、最近民衆は反戦デモを起こし、国の指針はその反対。というのが良く見られます。極端な温度差。
そして、「命をかける」といって戦争を美化する。でも、格闘技のリングや古来日本の決闘の美学は無い。
今の「命をかける」戦いは、常に相手が見えない。
自分の前に立ちはだかる敵は(The enemy)では無い(an enemy)或いは(enemies)なのだ。逆に「敵」にとって自分は敵ではない。敵はあくまで「国」や「権力」であるから。
「国」や「権力」の水面下で殺し合いが繰り広げられる。それは明確に「奴を倒す」という意思の下ではない。相手を正面からにらみつけることもないし、多くは銃、爆弾、戦闘機といった「戦略」の駒でしかない。攻撃をかけようとしている国が「我々は命をかけているんです」という言葉。何に?国家に?権力に?明らかにそこにあるのは家族や守るべき人とか、そういう具体的なものがないと思う。勿論、「駒」側である方々は自分が生きる為に戦争と決まれば「命をかける」事が必要となるけれど。
でも、本来指揮を執るものは国を守ることが役目なのではないでしょうか。国は人民なくして国ではない。その人民を先ず守らねばならないのではないでしょうか。
戦争をして誰が笑う?地球は泣き、戦場の人々は泣き、巻き込まれた人も泣き、世界は憤り、或いは悲しみにくれる。もう仲介に入れるような強大な力も無い。もはや徹底的にどちらかが滅ぶまで続くのではないでしょうか。
「安保理で多数決」なんて採るなら全世界の人々を含めて多数決してもらいたいものです。
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